幣帛山 光明寺

御幣島は「ミテグラ」(神にささげるぬさ)が略されて「ミテ」となったもので、平安朝時代には朝廷が難波の地に祭官を派遣して八十島祭を行った。これは天皇の御衣を斉主の大麻で祓って災いを除く行事でそれが行われた所といわれている。

幣帛山光明寺は、嘉吉二年(西暦1442年)に武内宿禰の末裔で兵部卿の紀貞之は深く蓮如上人に帰依し名を紹郡と号してこの寺を創建した。ちなみに紹郡は長禄元年(西暦1457年)武庫郡に宿禰山淨専寺も創建した。

神功皇后に随って三韓を征した誉田の皇子を補佐して功績のあった宿禰の墳墓を傍らに紀定盛の墳墓もある。

紀定盛は宿禰の末裔で、この地に住み着いた紀氏の祖である。

ふる雪に木々の梢をながむれば
   しろたえなりやみてくらのしま

紀貫之がこの地を詠んだ歌の一軸がある。

他に紫野一休和尚自筆による「松庵」一軸と、一休和尚の愛用した鳩杖が現存する。

昭和二年奥丹後の地震により本堂が倒壊し、昭和三十年仮本堂の竣工まで御本尊が庫裏に移されていた。

昭和四十二年、本堂の建立をとの議が檀信徒の間に広がり昭和四十四年本堂の竣工を見ることとなる。その後鋭意境内地の整備を進め現在に至る。

(参考文献)
・摂津名所図絵
・日本国資料叢書(摂津)
・大阪府全誌
・名勝旧跡誌
・郷土研究「上方」